代表の履歴書~希望ヶ丘高校編~

 私は横浜市瀬谷区というところで育ちまして、横浜市の西部学区(今は学区の定義が変わったようです)にある「希望が高校」に入学しました。希望ヶ丘高校は良くも悪くも「自由」な校風でして、勉強するも自由、しないも自由、というところがありました。意志が強い生徒は伸び、サボる生徒は落ちこぼれる、そんな学校でした。残念ながら、私は後者の人間でした。。。

 

 勉強は落ちこぼれましたが、中学からやっていた陸上競技はがんばりまして、高校3年生の神奈川県大会では三段跳びで5位入賞、4×100mリレーで6位入賞を果たしました!ただ、この結果は、私としては「逃げまくった」結果という思いがあり、当時はモヤモヤしていました。

 

 というのも、私は小学校時代は校内でも1位、2位を争う足の速さでして、中学では迷わず「短距離選手」として陸上部に入部しました。そして、最初に出場した100m走の記録会で、組中4着という、今まで味わったことのない平凡な順位に終わってしまい、かなり落ち込みました。今思えば、最近までランドセルを背負っていた「ルーキー」が、体格もしっかりし始める中3の短距離選手にかなうわけがないんですよね。そんなことにも気づかず、かなり凹んでいましたが、それでも走ることが好きだったこともあり、しばらくは短距離をやっていました。

 

 そんな中、たまたま出場した「走り幅跳び」で、いきなり横浜市の大会で8位入賞を果たし、中学に入って初めて「賞状」というものをもらいました。これはうれしかったですね。その後、本格的に走り幅跳びに取り組み、中3では神奈川県大会で8位入賞を果たしました。

 

 そして高校に入学し、そのまま「走り幅跳び」の選手として活動していましたが、顧問の先生の方針もあり、「走り幅跳び」をやるなら、「三段跳び」もやったほうがいいということで、サブ的な感じで三段跳びも取り組んでいました。ただ、三段跳びは競技人口が少ないこともあり、関東大会に出場するには走り幅跳びよりも三段跳びの方が可能性があり、実際に高校3年生の最後の大会では三段跳びで関東大会に出場することができました。

 

 ということで、「短距離」→「走り幅跳び」→「三段跳び」と、自分が通用するものが見つかるまで「逃げまくった」結果、関東大会に出場できた、という思いがあり、自分としてはちょっと情けない思いがしていたものです。ただ、今思えば、これはビジネスの世界ではある意味当然の戦略であり、相対的に見て自分が活躍できるフィールドを探す、というのは、至極まっとうな考え方だと思います。まさに「逃げるは恥だが役に立つ」を体感した陸上競技人生だったかと思います。

 

 さて、勉強の方ですが、みごとに落ちこぼれてしまったので、1浪はすでに覚悟をしていました。希望ヶ丘高校は、内申点で4.0以上をとっていると、慶応をはじめ、東京理科大やMARCHといったレベルの大学の「指定校推薦」が結構ありましたが、残念ながら私の内申点は3.86でしたので、指定校推薦は取れませんでした。

 

 そんな中、関東大会を視察に来ていた立教大学の陸上部の方が、いわゆる「一般推薦」の案内を持ってきてくれました。それを見ると、内申点3.8以上で、部活動で県大会6位以上、が条件となっており、何とか条件を満たしていたので、ダメもとで受けてみることにしました。というのも、もしかしたら立教大学に入れるかもしれないということで、理系を目指していた私は、理学部物理学科を志望校として代ゼミの模試を受けてみましたが、みごと「E判定」で撃沈していましたので。。。

 

 試験は英語、小論文、面接だったので、普通に受験するよりは受かる可能性が高いと思っていましたが、甘かったです。。。英語はそれなりにできましたが、小論文のテーマとして与えられた題材が、まずもってチンプンカンプンでした。しょうがないので、小論文対策として物理関係の本を数冊読んでいたので、その内容と小論文のテーマとして与えられた題材とを何とか整合させて、半分読書感想文のような小論文を書き、何とか原稿用紙は埋めた、という感じでした。

 そして挑んだ面接。一般推薦なので、てっきり「高校時代、がんばってきたことは?」みたいなことを聞かれ、「私は陸上競技に打ち込んできまして、」みたいな問答を想定していましたが、見事に予想は外れ、1から10まで全て物理の話でした。。。回答の8割が「わかりません。。。」だったと記憶しています。そして極めつけのこの質問は今でも忘れません。

「時間を映せる鏡があったとして、今回の小論文のテーマとなっていた運動をその鏡に映した場合、可逆的だと思うかね?」

「・・・・・?」

5秒ほど固まったあと、「あ~、やはりここは俺の居場所ではなかった。。。」と悟り、すっと目を閉じ「分かりません。。。」と答えました。

 

 そして帰り道、最寄り駅まで車で迎えに来てくれていた母に「ごめん、落ちたわ」といったのを覚えています。そして数日がたち、立教大学から封筒が届きました。私は封筒が届いたときは家にはおらず、帰ってきて兄から「立教から封筒きているよ」と言われました。そして、「封筒開けてないけど、たぶん受かってるよ。「入学手続き関係書類在中」って書いてるから。」とのこと。そして、何の緊張感もなく、封筒を開け、合格通知が入っていました。もうちょっと緊張感をもって合格発表を見たかったですが、あの面接で受かったことには本当に驚きました。

 

 そして、このときあることに気づいてしまいました。そう、私は立教大学理学部物理学科は「E判定」なのです!!このまま入学したらマジで卒業できないという焦りから、推薦で入学が決まったにも関わらず、それまでの2倍は真剣に勉強したと思います。もちろん、2,3カ月本気で勉強したところでそれまでの落ちこぼれをカバーできるわけもなく、落ちこぼれのまま大学に入学することになりますが、どうやって卒業できたかは、~立教大学編~でお伝えできればと思います。

 

長文をお読みいただき、ありがとうございました。