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代表の履歴書~希望ヶ丘高校編~

私は横浜市瀬谷区というところで育ち、横浜市の西部学区(今は学区の定義が変わったようです)にある「希望ヶ丘高校」に入学しました。

 

希望ヶ丘高校は良くも悪くも「自由」な校風。

勉強するも自由、しないも自由。

意志が強い生徒は伸び、サボる生徒は落ちこぼれる、そんな学校でした。

 

そして残念ながら、私は後者の人間でした。。。



「逃げるは恥だが役に立つ」を体感した陸上競技

勉強は落ちこぼれましたが、中学から続けていた陸上競技はがんばっていました。

 

高校3年生の神奈川県大会では

 

三段跳びで5位入賞

4×100mリレーで6位入賞

 

 

ただ、この結果は、私としては「逃げまくった」結果という思いがあり、当時はモヤモヤしていました。

ここで少し陸上競技人生について振り返ります。

◆ 短距離選手として

 

小学校時代、校内でも1位、2位を争う足の速さでした。

なので中学では迷わず「短距離選手」として陸上部に入部しました。

 

そして、中学で最初に出場した100m走の記録会。

組中4着という、今まで味わったことのない平凡な順位に終わってしまいました…

これがかなり落ち込みました。

 

今思えば、最近までランドセルを背負っていた「ルーキー」が、体格もしっかりし始める中3の短距離選手にかなうわけがないんですよね。

そんなことにも気づかず、かなり凹んでいました。

 

それでも走ることが好きだったこともあり、しばらくは短距離をやっていました。

 

◆ 「走り幅跳び」→「三段跳び」の選手として

そんな中、たまたま出場した「走り幅跳び」で、いきなり横浜市の大会で8位入賞を果たします。

 

中学に入って初めて「賞状」というものをもらいました!

これはうれしかったですね。その後、本格的に走り幅跳びに取り組み、中3では神奈川県大会で8位入賞を果たしました。

 

そして高校に入学し、そのまま「走り幅跳び」の選手として活動していましたが、顧問の先生の方針で、

「走り幅跳び」をやるなら、「三段跳び」もやったほうがいい

ということで、サブ的な感じで三段跳びも取り組むことになりました。

 

三段跳びは競技人口が少なく、走り幅跳びよりも三段跳びの方が関東大会に出場できる可能性が高かったのです。

実際に高校3年生の最後の大会では三段跳びで関東大会に出場することができました。

 

◆ まさに「逃げるは恥だが役に立つ」!

ということで、

「短距離」→「走り幅跳び」→「三段跳び」と、自分が通用するものが見つかるまで「逃げまくった」結果、関東大会に出場できた

という思いがあり、自分としてはちょっと情けない思いがしていたものです。

 

ただ、今思えば、これはビジネスの世界ではある意味当然の戦略。

相対的に見て自分が活躍できるフィールドを探す

というのは、至極まっとうな考え方だと思います。

 

「逃げるは恥だが役に立つ」を体感した陸上競技人生だったと思います。 


「分かりません」連発で大学合格!?

さて、勉強の方ですが、みごとに落ちこぼれてしまったので、1浪はすでに覚悟をしていました。

 

希望ヶ丘高校は、内申点で4.0以上をとっていると、

慶応をはじめ、東京理科大やMARCHといったレベルの大学の「指定校推薦」が結構ありました。

が、残念ながら私の内申点は3.86…指定校推薦は取れませんでした。

 

◆ 「一般推薦」に挑んだ結果・・・

 

そんな中、関東大会を視察に来ていた立教大学の陸上部の方が、いわゆる「一般推薦」の案内を持ってきてくれました。

 

一般推薦の条件を見ると、

 

内申点3.8以上で、部活動で県大会6位以上

 

何とか条件を満たしていたので、ダメもとで受けてみることにしました。

 

もしかしたら立教大学に入れるかもしれないのです。

 

理系を目指していた私…

理学部物理学科を志望校として代ゼミの模試を受けてみましたが、みごと結果は「E判定」で撃沈だったのです。。。

 

試験は「英語」、「小論文」、「面接」です。

普通に受験するよりは受かる可能性が高いと思っていましたが、甘かったです。。。

 

①英語

英語はそれなりにできました!

 

②小論文

テーマとして与えられた題材が、まずもってチンプンカンプン。

 

しょうがないので、小論文対策として数冊読んでいた物理関係の本の内容と小論文のテーマとして与えられた題材とを何とか整合させます。

半分読書感想文のような小論文を書き、何とか原稿用紙は埋めた、という感じでした。

 

③面接

そして挑んだ面接。

 

一般推薦なので、てっきり

 

面接官:「高校時代、がんばってきたことは?」

私   :「私は陸上競技に打ち込んできまして…」

 

みたいな問答を想定していましたが、見事に予想は外れ、1から10まで全て物理の話でした。。。

 

8割が「わかりません。。。」回答したと記憶しています。

 

そして極めつけのこの質問は今でも忘れません。

 

面接官:「時間を映せる鏡があったとして、今回の小論文のテーマとなっていた運動をその鏡に映した場合、可逆的だと思うかね?」

私   :「・・・・・?」

 

5秒ほど固まったあと、「あ~、やはりここは俺の居場所ではなかった。。。」と悟りました…

すっと目を閉じ「分かりません。。。」と答えました。

 

そして帰り道、最寄り駅まで車で迎えに来てくれていた母に、「ごめん、落ちたわ」といったのを覚えています。

 

◆ 「合格」できました!

そして数日がたち、立教大学から封筒が届きました。

私は封筒が届いたときは家にはおらず、帰ってきて兄から「立教から封筒きているよ」と言われました。

 

そして、「封筒開けてないけど、たぶん受かってるよ。『入学手続き関係書類在中』って書いてるから。」とのこと。

そして、何の緊張感もなく、封筒を開け…合格通知が入っていました。

 

 

もうちょっと緊張感をもって合格発表を見たかったですが、あの面接で受かったことには本当に驚きました。


大学推薦入学決定後に猛勉強

 そして、このときあることに気づいてしまいました。

 

そう、私は立教大学理学部物理学科は「E判定」なのです!!

 

このまま入学したらマジで卒業できない!!!

 

という焦りから、推薦で入学が決まったにも関わらず、それまでの2倍は真剣に勉強したと思います。

 

もちろん、2,3カ月本気で勉強したところでそれまでの落ちこぼれをカバーできるわけもなく…

落ちこぼれのまま大学に入学することになりますが、どうやって卒業できたかは、~立教大学編~でお伝えできればと思います。

 

 

長文をお読みいただき、ありがとうございました。